静岡市議会 2022-09-05 令和4年9月定例会(第5日目) 本文
まず、歴史文化の拠点づくりでは、歴史文化のまちの中核となる歴史博物館は、本年7月にプレオープンしていますが、この施設では建設地で発見された戦国時代の道と石垣の遺構を施設に取り込んでおり、歴史の積み重ねを体感してもらうことで輝かしい本市の歴史文化を保存・伝承し、その魅力が市内外へ発信されするものと期待しております。
まず、歴史文化の拠点づくりでは、歴史文化のまちの中核となる歴史博物館は、本年7月にプレオープンしていますが、この施設では建設地で発見された戦国時代の道と石垣の遺構を施設に取り込んでおり、歴史の積み重ねを体感してもらうことで輝かしい本市の歴史文化を保存・伝承し、その魅力が市内外へ発信されするものと期待しております。
遺構の掘削の土工事につきましては、博物館建設に当たりまして現地を発掘した際、戦国時代末期の道と石垣の遺構が発見されました。これを博物館に取り込むこととして工事を進めておりますけれども、工事中に遺構を傷めないために一旦埋め戻しをして、今、施工しています。
94 ◯中川歴史文化課長 現在進めている施設の建築工事の完成後、時期としては令和4年7月から12月に、プレオープンということで、戦国時代末期の道と石垣の遺構を展示している1階部分について公開させていただきたいと思っております。
この発掘調査では、大御所家康公時代の日本一の大きさの天守台や戦国時代末期の天守台と小天守台など、重要な発見がありました。 現在は、出土した瓦や石垣などの遺構の分析調査、整理作業などを進めており、3月末までに今回の成果の取りまとめが完了する予定です。
平屋建ての建物の中に、埋蔵文化財調査で発見されました戦国時代末期の道と石垣の遺構を取り込んでございます。 そして、右側の鉄筋コンクリート造りの4階建ての建物ですが、1階の大半は管理部門になっております。一部、カフェ、ショップを置き、また講座室がございますが、大半は管理部門。2階、3階がこの博物館の肝となる展示室の配置になっております。
この発掘調査で見つかった戦国時代末期の道と石垣の遺構をやはり保存して活用していこうということで、同年、再設計に取りかかったというところでございます。そして、令和2年度12月には建設、それから展示の工事の契約を済ませ、年明け1月に着手し、今に至っているところでございます。
日本においては熊本市は古くから国外の北西と西側に対する防衛の要であり、戦国から明治までは南に対しても重要な地でありました。そして、豊かな水と肥沃な大地と豊穣の海による有数の農業漁業地帯、それを活用すれば十分に成り立つ経済が存在していました。
施設完成後の7月に、プレオープンとして、戦国時代末期の道の遺構を展示している1階部分を公開する予定です。 プレオープン期間中は、2階、3階の展示の設置作業など、この期間でなければ見学できないバックヤードツアーやお茶に関連したPRのほか、局間連携による各種イベントや大型イベントに合わせた夜間開館などを計画しております。
様々な偉人についても,そこで掲示させていただいているんですが,戦国時代のあの有名な小西行長が表町にあった呉服屋さんの養子で来たんだというのは,あれで初めて知ったようなところであり,驚くことも多かった次第であります。そういう面では様々なところ,足守でも建部でもいろんなところにこういったものがあるわけでありますけれども,これを大切にしていかなきゃならないというのはおっしゃるとおりだと思います。
大阪府大東市では,ニンテンドースイッチのソフト「あつまれどうぶつの森」のゲーム内で自主制作した「だいとう島」を,本市ゆかりの戦国大名である三好長慶の生誕日に合わせ,令和3年3月より公開しています。大東市は,歴史的資源のキーコンテンツに設定している三好長慶公と飯盛城跡をPRするイベント,三好長慶公武者行列in大東を毎年3月上旬に開催しています。
歴史のまち興津は、古くは680年頃、蝦夷の侵入を防ぐため、清見関が設けられ、戦国時代には戦略上の重要拠点となりました。その後、東海道の宿場町として栄え、明治、大正、昭和初期には皇族、政財界、文化人の保養地、別荘地として名をはせました。 どんなに歴史が変化しようとも、そこには変わらず清見潟という磯や浜が住民の暮らしとともにありました。
今後,一新される展示への期待感の醸成を図るため,岡山や岡山城の歴史がより伝わるPRやイベントを行いたいと考えており,実施に当たっては金と黒を使用することで戦国時代に建てられた黒い外観や秀吉方の有力大名として金箔瓦を使用したことなど,多くの人に当時の岡山の歴史的背景や岡山城の価値を伝えていきたいと考えております。
そこはもともと戦国登城コースの名称が入っておりまして、この名称では誤解を招くとの御意見があったことから、コース名を築城期登城コースに改めることといたしました。修正箇所は朱書きでアンダーラインが引いてございます。 次に、99ページをお開きください。
戦国武将の武田信玄の隠し湯と言われ、傷ついた武将たちが傷を癒した歴史もあるそうです。私が子供の頃の記憶をたどりますと、私たちの田舎でも骨折などをした山で働く人たちがそのけがを療養するために、いわゆる食料持ちで泊まりがけに湯治した話を耳にしたものであります。
現状では,桃太郎大通りに岡山の戦国大名の宇喜多家と岡山藩主の池田家の家紋のフラッグが掲げてありますが,小さくて見づらい上に,よほどの歴史ファン以外には分かりません。そうではなく,最寄りのバス停や電停の停留所から岡山城までの間に,例えばインスタ映えのスポットをもっとアピールする,あるいはよりインスタ映えするように環境を整備するということも一つの手段ではないかと思います。
私が特に注目しているのが、太田資正という関東戦国時代の中での有力な地域領主、国衆として大活躍した人物です。室町幕府の関東管領を担ってきた上杉家の中の扇谷上杉家の家宰として、太田家は道真、道灌などが歴任してきました。河越合戦で主家が滅亡した後、吉見町の松山城に身を寄せ、兄の死後岩付城を奪還しました。
令和4年は、三方ヶ原の戦いから450年を数え、戦国時代に再び注目が集まるものと考えられます。この年には徳川軍と武田軍が正面衝突した戦いのほかにも、幾つかの局地戦や二俣城をめぐる攻防戦があり、ゆかりの地が市内の至るところに残っています。今後、戦いにまつわる伝承地や伝説なども含めた文化資源を市民協働事業として広く収集し、ストーリー性を持たせた歴史的な評価を深めてまいります。
これについては、建設予定地で発見された戦国時代の道と石垣の遺構を施設に取り込み、保存・活用するため、遺構を生かした部屋の配置、効果的な展示手法を検討し、令和元年6月に完成した実施設計の内容を可能な限り生かす形で再設計が行われました。輝かしい静岡の歴史文化を保存・伝承し、その魅力が市内外へ発信されるものと期待しています。
駿府城天守台発掘調査の成果に相応して進められている戦国時代末期の道路遺構の発掘現場に立ち、建設に携わる職員から丁寧な説明を受けることができました。 昨年9月議会の質問の際に、観光交流文化局長は歴史文化施設機能の1つが博物館としての機能であり、歴史資料の収集・保存・調査研究、そして展示・公開、もう1つ、歴史文化の教育普及であると述べられました。
戦国時代から江戸時代にかけての浜松城の全容が次第に明らかになってきており、その歴史的、文化的価値はさらに高まってきています。 そんな中、本市は、浜松城天守閣の展示リニューアルを令和2年度に計画していることが新聞でも報道され、本市の観光振興や市民が誇ることができる歴史的、文化的価値の高いアカデミックな都市ブランドの構築が見込まれ、大変意義のあることと感じています。